発話のきっかけをできるだけ生み出すとか、自発的な発話を促すことで積極的かつ主体的な授業参加を期待する授業をより良くするためになら、授業見学に来て欲しいし、見に行きたい。
一方で、何の情報もなく誰かの授業を見て、それについて建設的な意見を述べるとか、述べられるという授業見学が、ぼくが日本語教師になって以来あちこちの学校で経験した授業見学だ。日本語教師なりたてのころは、いろいろな先生の授業を見て、技術を盗むように真似てみたりして、よりよい授業をするための学びのきっかけになった。だがある時期からそういったスタイルの授業見学には疑問をもつようになった。ビリーフスが違うのだ。今風に言うと、キャラが違うのだ。真面目にきっちりする先生もいれば、ゆる〜く和やかな雰囲気ですーっとスムーズにされる先生もいる。そういうスタンスの違いの根っこには思想があり、スタンスから繰り出されるディテールには学生の成長過程を凝視し、試すべき挑戦や測るべき能力が、絶え間なく生まれては変化し、そこに教師と学生との非言語的な対話があり、そこから信頼関係が生じるのだと思う。
思想もディテールも無視したスタンスだけを眺めるような授業見学にはあまり意味がない。そういった授業見学をするためには、その先生と親しくなってなんとなくでもいいからその先生の根本にある考え方(思想)や、最近問題視しているテーマ(ディテール)をやっぱり知っておかなければ、スタイルだけを見てああだこうだ意見を言うのは失礼だと思うし、時間と労力の無駄だと思う。
だからこそ、近年アクションリサーチという言葉をあちらこちらで耳にするのではないだろうか。
というのが自分の意見だが、しかし、非常勤なので専任の言うことは聞かねばならぬ。

 たとえば、近年の教室活動研究では、とくにアクション・リサーチという方法が注目されています。この方法は、教室内の具体的な活動(たとえば、学習者の動き、母語話者の働きかけ、教師の役割等)の実際についてテーマを定めて観察し、その観察的態度をもとに、内省的実践家の育成するものとして考えられています。
 しかし、教室活動を分析するといっても、その教室自体がどのようなことを目的にしているかで、アクション・リサーチそのものは、変容します。やはり観察者自身の教育観や教室観が大きく影響するのです。(細川英雄(2006年)『研究計画書デザイン 大学院入試から修士論文完成まで』東京図書 pp.157)

こういう説得力のある言い方ができれば、いいのですが、どうしても答えを急ぎ過ぎるせいか、気持ちが先走ってしまうせいか、物言いが性急に過ぎて、どうもぼく自身の言葉には説得力がないことを反省しなきゃいけないのだろうなーぁ。